常識と偏見。君が見える青色は何色ですか?

人生で構築され続けてきた常識をいつだってぶち壊して生きていこうって何かに気付きつつ高校生の時は常にそんな事を思っていた。

でも大人になってそんなに正直に生きていけないと痛感する。子供だったって言えばそれまでだけど……

ただいつの時代もそんな考え方にロマンと憧れと眩しさを抱いてしまう。

音楽に限らず夢を追い続ける職業ってゆうのは常にそうゆう考えのもと動いていると思っていた。自分を表現するために生きていると過信でも自信でもいいから何かしらを持って生きてきたのだから。少なくとも自分はそうやって生きていく事しかできない。それを社会不適合者なんてひと殴りにして終わらせてしまうのが世の中だがそれで終わらしてしまうぐらい儚い心意気なのだと最近感じる。ようは周りからすれば子供なのだろう。大人になりきれていないだけなのだろう。年を積み重ねるたび笑えないほど笑い者になっていくのだろう。

才能があって努力を惜しまず命懸けで取り組んだとしても根底の心理が大人になりきれないのならきっといつまでも使われ続ける存在なのだろう。いつまでも自分の思い通りになんてなりやしないのだろう。自分が思い浮かんでいたような生き方なんてできやしないのだ。ようは馬鹿なのだろう。

 

いつも思う、勉強はするべきだ。自分の時代がいくら変わってもそれは思う。ただ大人の言う事なんて聞く必要なんてなかった。ほとんどが僕らとは違ってすんなり大人になれるのだから。仕事だから。僕らは自分の好きな事は勉強した。それは国語や数学とは限らなかった。時には物理の時間に絵を描き音楽の時間に話を書き、国語の時間に人間や宇宙について自分なりに勉強をした。休み時間に音楽を聴いて数学の時間に現代文の教科書の中の話を読んだ。

みんな頭がいいんだ。皮肉混じりにいつもそう言っていた。周りの大人の言う事を聞いて頷いて大学へ入ったんだ。自我を育まないで大人の言う事を聞くことに成長期のほとんどを費やしたんだ。でも世の中はあちら側の味方らしい。自我を育てず素直に頷いた者が賢いというハンコを押してもらえるらしい。そうゆう人は自我という物について僕らよりも豊富に知識があると言う。頭がいいのか悪いのか頭を育てた事によって自我を得たなんて言う。それは僕らから見れば勉強して国の事を深く知りお国と天皇陛下の為とゼロ戦に乗ることに強く志願する兵士に見えてしまう。ゼロ戦の特攻隊だって死ぬ直前は「天皇陛下万歳!」なんて言わなかったらしい。母や妻や子供の名前を叫ぶんだ。

 

 

僕らはただ正直に生きていたいだけなのに。生きるとは本来そうゆう事だと言っていたのは小学低学年の道徳の教科書だけだった。中学生にもなると早々にそうゆう考えを諦めて大人が近づいてきた。

僕らだってほんとは分かってはいる。それが生きていくっていう事だって聞き飽きるほど言われた。

「君たちは猿やチンパンジーじゃないんだから静かにしてと言われたらできるでしょ?」

口を酸っぱくして小学校の先生がよく言っていた。今考えるとなんて絶妙に毒を吐くのかと褒め称えたい。

 

見える景色が違うのだろう。良くも悪くも。お互いの常識という名の景色はいつまで経っても見る事はできやしないのだろう。それでも人は順位を付けたがるから僕らはいつだってランク外なのだろう。きっと分かり合う事もできないのだろう。そうやって僕らは社会不適合者と言われ賢いというハンコも貰えず非国民と罵られそうやって散っていってしまうのだろう。

 

もはや常識なんて偏見となにも変わらないとつくづく思わされてしまう。

 

 

 

君が見える青色は何色ですか?

………ほら。どうしても伝える事なんて出来ないでしょ?